目を覚まして、目の前の青年と出会い達と離れ離れになったと知った瞬間、
雷に打たれたような衝撃を受けたのをは覚えている。
これからどうするべきか、考えようとも暫くは上手く頭を働かせることはかなわなかった。
それどころか体を動かすことすら満足にいかない。立とうとしても足に力が入らないのだ。
やせ細ってしまった体を支えるはずの筋力もすっかり衰えてしまったのか、まるで歩くことを忘れてしまったようだ。
奇跡的に助けられた時、は危険な状態だったらしい。
本当に今生きているのが奇跡と言っても良い位だったと様子を見に来た医師に言われた。

しかしルックは言う。
「奇跡?ばか言うなよ。そんな陳腐な言葉で片付けないで欲しいね。
僕が君を見つけたのは僕が望んだからで、もちろん君が望んだと言う意味でもある。
正確には君の持つ紋章が、僕を呼んだ、というべきかもしれないけれど」
曰く、何年も気配すら窺わせなかったというのに、
突然気配を察して駆けつけたと思ったらそこではが死にかけていたと言う。
「まったくあのぼんくら紋章は何をやっていたんだ」結果的にはこうして危機一髪事なきを得たわけだが。
紋章が持ち主の意思と関係なくその力を働かせることなんて出来るのだろうか。
「忌々しい」と紋章に対して悪態をつくルックを見ていると、なかなかの曲者の紋章であるらしい。
どうやらの生死の問題に直面した瞬間に本人の意思に問わず紋章自らが防衛本能を働かせたのだとか云々、
には自分に紋章が宿っていること自体寝耳に水だったのでその意味の半分も理解できなかった。
何よりも体中の器官が思うように動かず、思考を働かせるという単純作業すら困難な状況だった。
紋章?何それ。それは重要な事の筈なのに今は他人事のようにすら感じられ
足が自分のものではないような感覚。棒のように重い。
かろうじて動く腕を使って体を起こそうとして失敗し、再び柔らかい枕にダイブした。
なんだか疲れたな、一通り部屋を見渡すと、特に何をしたわけでもないのに疲労感が瞼を襲った。
そんなの様子を見かねた青年は、ひとつ溜息をつくと、当たり前のように、
優しくの髪に触れ、それからその長い指でそっとの瞼を閉ざした。
視界が闇に覆われ、そのまま深いところに落ちる寸前、向こう側で、
終始眉間に皺を寄せていた人物から出た言葉とは思えない、優しい声が聞こえた気がした。
一定のリズムで撫でられる頭が酷く心地よい。

「今はゆっくり休むといい。お休み、

ここに来て初めて彼の口から自分の名前を聞いた気がする。
もしかしたら気のせいかもしれないけれども。
何か、言葉が喉の先まで出かかったけれど、結局言葉にすることもなくそのまま闇に沈んだ。









programma4-3 Reminiscenza- 記憶 -










次に目を開けた時、当たり前のように彼はそこにいた。
ベッドのすぐ横に椅子を一つおいてそこに腰を下ろすその手には分厚い本を持っていて、
が読んだこともない程の厚みを持つその本はかなり後ろの頁まで捲られている事から察するに、
随分と長いことここにいたのだろうか。
軽く目を見張ると、視線に気づいたのか、本から視線がへと向けられた。
「ああ、おはよう」
「おはよう…ございます?」
「なんで疑問なんだ」
いや、あの、と言葉を濁す。だってちょっと気まずい。
こんなきれいな人にずっと寝顔を見られていたのが。
そう思うことは今更すぎて無意味な気がしたけれど、若干の照れはあった。
だって一応は年頃の女の子なのだ。異性に寝顔を見られて羞恥心が芽生えないわけがない。
「ていうか『おはよう』なのかな?」
少しの疑問。体のダルさは半端ない。休日に一日中寝すぎてダルイ!という感覚をもはやはるかに上回っていた。
「ああ」
手にした本にしおりを挟んで静かに閉じて脇のボードに置くと
体ごとのほうにむけて話す姿勢に持っていく青年をぼんやりと見つけていると、彼の指が二本上げられた。
「二日、寝てたね。確かに君が言うことはもっともだ。ちっとも『おはよう』じゃないね」
くらり、とめまいがした。自分は二日も寝ていたのか、道理で体が重いわけである。
「だけど、その前の君の事を考えると『おはよう』でもあながち間違いではないと思うんだけど」
その瞳には、少しからかうようなものが混じっているのに気づいたは、その先を聞きたくないと心から思った。
口元が悪役よろしく、す、と歪められるのを目撃してしまった。
「君は僕に助けられてから半月、目を覚まさなかったんだよ」
絶句した。まさかのびっくり人間。
人は半月も眠り続けて、生きていられるのだろうか。
医学に詳しくないにはわかるはずもないが、普通に考えてそれはあり得るはずがなかった。
この異常なまでの倦怠感はそのせいであると理解したと同時に、
まさか自分がそこまで鈍感にどん欲に眠り続けていただなんて信じがたい。
でも目の前の青年が嘘を言っている様子はないので、図らずもびっくり人間の仲間入りをしてしまったというわけだ。
「なんてこと…」
天井を仰ぐと憎らしいまでに白さが目について思わず目を瞑る。
どうやらすっかり日は昇りきっていて、一日で言う朝ではないことは確実で、
まったくもっておはようからかけ離れていると思った。
(ああ、どんどん常識から離れていくよ…)
泣いてもいいだろうか。最初は記憶喪失から始まり、島流し、海で遭難と続く。
これはどう考えても常識の範疇を超えていると思うのはの気のせいだろうか。
そもそも海でおぼれるという行為は初めてではない気がする。
が泳げないというのはその時点で既に周知の事実となっていて。
海という存在が軽くトラウマになったのはその一件だったように思う。
我ながら波瀾万丈な人生だと、は乾いた笑みを浮かべた。
記憶喪失の原因である最初の漂流事件は流れ着いた島でに無事に保護され、
大事には至らなかったけれど、あの時は半月も寝込まなかった筈だ。
数日そこそこですっかり体は回復していた筈だ。あまりの回復の早さに周りも自分自身も驚いた位で―――
今回は一体何が違う?
そこまで考えてふと、違和感に気が付いた。
(何かを忘れている…何かを…)

「あ!」

何かを考え込んでいたと思ったら急に声を発したに、それまで静かに彼女を観察していたルックは眉を寄せた。
!タル、ケネス、チープー…皆は…??どこ??)
自分が海に投げ出された時の状況を思い出した。殺人エイとの戦いで苦戦していたはずだ。
その最中には無理矢理に戦線離脱を余儀なくされ、というよりまったく役にもたたなかったのだけれど。
あの後、彼らはどうなったのか。仲間は無事なのか。
思い出した途端、胸が締め付けられるように苦しくなった。

「ここはどこです?!」

突然慌てふためくにルックはまったく動じる様子もなく告げた。

「海の上」
「うみ?」
「正確な位置までは把握してないよ。僕だって一応は居候の身だからね」
居候、それは初めて聞いた。その割には随分と我が物顔で居座っている気がするのは気のせいだと思いたい。
部屋が揺れていると思ったのは、気のせいではなく、海の上だからだという事実も判明した。
船内の一室にしては随分と広く、清潔で調度品の質も悪くない。随分と立派な船なのだろか。
突きつけられる事実は自分が寝かされているこの部屋はどう考えても一般庶民に与えられるものではないということで。
この青年、一体何者?
疑問は顔に出ていたのだろう。
「気になるなら自分で確かめればいい。もちろん自分の足、でね」
それはあまりにも意地の悪い答えだった。が簡単に歩ける体ではないと知っていての言葉なのだから。
「具合はどう?」
それを今更聞くか、と思った。
「悪くはない、はず。ただ体が自分の思うように動かないだけで。気分は最悪だけど」
拗ねたように言うにルックはく、と笑いを漏らす。
「その表情、相変わらずだね」
気分が下降すると子供のように口を尖らせる癖。ルックの目元が緩む。
「え?」
「起きあがれる?」
微妙な笑顔で手を差し伸べてくるルックを怪訝に重いながら手を借りて身を起こした。
急に起きあがったからだろうか貧血でくらりとしたところを思いの外力強い腕が背中に周り枕ダイブを免れた。
手伝ってもらって棒のような足をベッドの縁に垂らすところまで終えるともの凄い疲労感がどっと襲ってくる。
半月のブランクは大きい。その直前の無人島での生活が追い打ちをかけていた。
「くらくらする…」
「まずは歩行訓練が必要だね」
「うう…」
しょうがない、手伝ってあげるよと言う青年はスパルタに違いない。絶対に間違いない。

「はい」
そう言ってのばされた手に一瞬戸惑ったけれど、恐る恐る重ねると、
意外にも優しくそっといたわるように握られてドキドキした。
美形に手を握られるという行為には未だになれない小心者のはとても恐縮したが、
普段のそれとは違うドキドキに、心が落ち着かない。
なかなか動く気配のないルックに焦れた、というよりもこの手を握り合う、という行為が妙に照れくさくて、
顔を上げることが恥ずかしく感じられ、自然と俯いて、繋がれた手に視線が集中する。
自分よりも大きな、だけれど自分よりも白くて細いそれ。
なんだろう、どうしてこんなにも懐かしくて、心地よい彼の手。
覚えていないのに、それはの心を揺さぶった。
無意識にの手に力が篭もるとそれに応じるように、今度は力強く握りかえされた。
それに気が付いて視線を上げると、真剣な瞳と合わさった。

「君にはわからないだろうね」
「え?」
「僕の今の気持」
「気持?」

真直ぐな瞳は、瞬きすることなく、の瞳を捉える。何故だろう、視線が反らせないと思った。
視線を反らしたら、大切な物が零れてしまいそうな気がして、その瞳に囚われる。
「誰にもわからない。誰にもわからせない。君が、わかってくれないなら」
息が、詰まる。そんな風に真っ直ぐに言われると、どう反応したらいいのかわからない。
繋がれた手から相手の体温が伝わってくる。唯一そこだけがじんわりと温かいのだ。
「でも、特別に一つだけ教えてあげるよ」
「え」

「僕は、君とこうして再会出来て嬉しいと思っているよ」

嬉しいと言う人には間違っても見えない、表情の読めない能面のような顔をしている癖に。
だけど、その瞳だけは真実を語っていると、には何故か理解できた。
はルックのことなんて何一つ覚えていない筈なのに、どうしてか
彼が不器用であるという事を頭のどこかで理解していて、それが彼の精一杯の意思表示―――SOSのような気がした。
出来るなら、彼を思いっきり抱き締めたいと思う。けれども、それを躊躇わせたのは
半分ほど崩壊しかけた理性と、重たい体、そして

そうするよりも先に、繋がれた手に強く引かれて、自分の意思を理解する前に、白いベッドではなく、広いその胸に
倒れ込むようにして収まる自分―――
「え」
気づいた時にはすっぽりと彼の温かなその中に収まっていた。
熱を持った腕からその温もりが離れ、背中へと移る。自分の持て余した腕をどうするべきか迷って結局だらりと横に下がった。
そのままゆっくりと引き寄せられ、彼と自分の距離がゼロになると、頬が、固い胸板に押しつけられた。
一見冷徹なように見える無表情の青年なのに、触れた部分は温かい。
どこからこの温もりが生まれるのかと見当違いな事を考えるのは現実逃避をしているからに違いなくて
そうでもしなければ、この火照った頬の熱が体中に伝染してしまいそうだった。
そんなに構うことなく、ルックは回した腕に力をこめた。
それは優しく、包み込むように、けれどどこか焦がれるように。
押しつけられた部分からとく、とく、と彼が生きる音がした。
「ルック?」
突然の抱擁に少なからず同様を隠せないの声は、静かに室内に響いた。
声に反応して、また腕に力がこもった。
(ああ、もしかして)
は気が付いた。不器用なルック。
自分はちっとも彼のことを覚えていないけれど。
視界が彼の胸で埋められて、彼の鼓動が一杯に自分の中に入ってきて。

「無事で良かった」

逢って一度も、そんな素振りを見せなかったくせに。
その一言が、今の彼の全てを物語っていた。
その瞬間に、の中で何かが音を立てて弾けた。

彼は自分が思った以上にを心配していたらしい。
彼は自分が思った以上に、の事が大切で
自身も、思った以上に彼のことが大切で
けれど、不器用な自分達はお互いにそれを伝えることが難しいらしい。
にはこの気持が難解過ぎるけれど、そうでなければこの瞳から流れる温かいものの説明が付きそうにない。

「寂し…かったんだね」
その言葉に、びくりと反応したのは図星だから?
が記憶を失っていた数年間、ずっと探していてくれたのだと言っていた。
にとっては、あっという間の数年間だったけれど、ルックにとってはどうだったのだろう。
彼にとって自分がどれほどの存在なのか、わからないけれど、には、その間、支えてくれる達という仲間がいた。
ならば、ルックは?

緩んだ腕が、離れていく距離が切ないと思ったのはなんで。
ゆっくりと、無理な体勢だった体が元に戻ると、困惑した瞳と目が合った。
何か言葉を口にしようとして、何も浮かばないことに愕然とした。

「ごめんね」

今度は自分からその背に腕を伸ばした。
再びゼロになるその距離が愛おしいと思った。

記憶が戻ったら、彼のこの深い孤独を埋められることができる?
縋るように回される腕に身を委ねたらつん、と海の香が風に乗って鼻腔を擽った。
懐かしい香にそっと瞳を閉じる。







  



2010.08.25

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